多賀野さんエピソード

世間は無職や引きこもり状態の人を「努力が足りない」と非難します。

しかし、彼らのすべてを努力不足で片づけるロジックは、現実とはかけ離れた考え方と言うしかありません。とくに就職氷河期やリーマンショック世代の人のなかには、どれほど努力を重ねても報われない現実がありました。

今回は空前の就職氷河期を前にして、中国留学、スーパーの店員、フリーターと遍歴した、「多賀野 仁」さんのエピソードをご紹介します。

 

多賀野 仁さん
京都府に在住する40代の男性。

有効求人倍率0.39を記録した空前の就職難を就職氷河期を前に、一流大学を卒業しながら多くの挫折と失敗を経験。親とのトラブルを繰り返しながら、長く引きこもり生活を続けたが、現在は復活。

病院の夜間電話交換手として勤務しながら、中国語の翻訳家としても活躍にする。

(画像はイメージです)

 

氷河期の現実に耐えられず中国留学。転落人生のはじまりに

 

ゆめ
どうして引きこもってしまいましたか?

 

就職失敗とその後の選択のマズさです。

私が大学を卒業した年は、正に空前の就職氷河期の始まりでした。ところが、当時の私は自分自身のダラけた学生生活も相まって、就職活動はまったく進まず。

無い内定状態に陥り、年内の就職を諦めました。

 

ゆめ
大変な思いされましたね。その後はどのように過ごしました?

 

当時の私は、焦っていました。

就職浪人したとはいえ、翌年の景気は前にも増して厳しい状況でした。再び就職活動をしたところで、内定を掴める気がしなかったのです。

結局、焦りと不安に耐えきれなかった私は、半年のフリーター生活を経て、現実逃避とも言うべき中国語学留学の道を選びました。

もっとも、いま思えば、これが私をどん底に突き落とした根因ですが。

 

ゆめ
留学が原因とは、帰国後うまくいかなかったのですか?

 

はい。一年半ほど留学してから帰国しましたが、相変わらずの就職氷河期です。

当時は年齢を重視する動きが強く、24才を数えたわたしに興味を持つ企業はありません。さらに言えば、あの時代は中国の存在感が薄く、採用試験では語学力もまるで評価を得られませんでした。

満を持してのチャレンジも、結局のところ無い内定です。

 

ゆめ
痛い失敗ですね。そのまま引きこもりに?

 

いいえ。翌年も半年間ほど就職活動を続けたところ、大手のスーパーに就職しました。

もちろん、本心ではありません。当初は適当に働き、学歴と才能でそれなりに出世してやるかと、甘く考えていたというのが実態です。

しかし、現実はどうにも甘くない。スーパーの仕事は転勤が多くて案外キツく、だんだんと不満を感じるようになりました。

そして、私のそんな思いが勤務態度に出たせいか、次第にスーパーでも過酷な扱いを受けるようになり、結局2年半ほどで退職しました。

 

ゆめ
努力されてきているので、不満は当然かとも思います。

 

その後の人生は、振り返りたくもないです。

無計画に辞めてしまったせいで、1年もすると生活に困窮し始めます。「食いつなぐため」と割り切ってコンビニやガソリンスタンドなどを転々としましたが、いずれの仕事も見事に続かず。

就職難だったので仕事があるだけでも良かったですが、やはり同級生が社員としてガンバってる姿なんかを想像すると、叫び声をあげたくなりました。

 

気力失い茫然自失。更なる地獄となった4年間

 

幾度も失敗を経験した多賀野さんは、ついに実家に戻り、引きこもりとして暮らす道を選ぶ。

しかし、多賀野さんは実家暮らしを続けるうちに、両親ともに無気力状態へと沈んでいく。

ゆめ
実家に戻ってからは、どのように過ごしましたか?

 

引きこもりの、ステレオタイプのような生活です。

一日中部屋からほとんど出ず、出るのはコンビニにお酒を買いに行く時ぐらい。常に酔っ払っている状態でした。

お酒が好きというのもありますが、素面でいると、かつての苦痛や屈辱がフラッシュバックしてしまい、耐えがたいのです。

無い内定の日々。スーパーでの過酷な勤務。あざ笑うかのような若い子たちの表情。プライドの塊だった私には、あまりにも屈辱的な経験でした。

 

ゆめ
ツラさがにじみ出てくるようなお話です。周囲の人は多賀野さんにどう接しました?

 

まず、交際関係はすべて断ち切りました。

実家に戻っても、自分の姿を見せたくないので、友人や知人には連絡せず。父も母も最初のうちは仕事をさがすことを急かしましたが、私の様子が普通ではないと分かったのでしょう。そのうち何も言わなくなりました。

そんな無気力な生活が4年ほど続きました。

 

ゆめ
4年ですか。転機が訪れましたか?

 

悪い方に訪れました。

まず、両親が外部の相談機関などに相談したのか、ある日を境に精神科の受診を勧めるようになりました。両親としては支援のつもりだったのかもしれません。しかし、「いまの自分の姿を誰にも見られたくない!」と考えていた私にはいい迷惑です。

結局、病院には行かずじまい。それどころか、両親を相手取りしょっちゅう大声を張り上げるようになりました。

今思い出しても、本当に地獄のような日々でした。

 

開き直って就活すると採用に

 

その後も無為に過ごし続けたと語る多賀野さん。

彼にとって本当の転機は、年月が過ぎ34才を数えた時に訪れたという。

 

ゆめ
引きこもりから脱出したきっかけ的なものはありますか?

 

何か特別なきっかけがあったわけではありません。

ただ、引きこもっている日々のうち、テレビでの何気ないコメンテーターの一言が心に響いたり、仏教の本を読んだりして徐々に心が回復していったように思われます。

34才だからというわけではなく、年齢を重ねるにつれ、少しずつ勇気が湧いてきた感覚です。逆に言うと、心のダメージが回復するまで、それだけ長い時が必要という話でもありますが。

 

ゆめ
しかし、普通はブランクが長いほど、恐怖を感じるものかなと思います。

 

そうでもありません。

20代の頃は劣等感のようなものが邪魔して、安易な就職活動を受け入れることができませんでした。しかし、このとき私は既に34才。

これはもう、完全にレールから外れてしまっているわけですよ。

「34歳になろうかというのに、何のスキルも無い自分」を想像すると、多くは望まずといった条件も受け入れられるようになり、警備員など気楽そうな仕事に目が向きました。

 

ゆめ
なるほど。現実を受け入れる道を求めたというわけですね。

 

最初は商業施設の警備員の面接を受けましたが、そこは不合格でした。

次に、ある病院の施設警備員を受けたところ、再就職は割と拍子抜けするほど簡単に決まった印象です。空白期間についても多くを聞かれるのかなとか、いろいろ心配していたので、拍子抜けしたほどです。

「やってみれば、案外何とかなるもんだな」といった感覚ですね。

 

徐々に手を広げ本来の実力を発揮する

 

ゆめ
警備員としての仕事は順調でしたか?

 

おおむね順調でしたが、途中で同じ警備会社が請け負っている病院での夜間電話交換手に配置換えとなりました。

給料も安いし、勤務時間も不規則ですが、過酷なノルマや膨大なサービス残業が無いのは精神衛生上とてもいい事のようです。

 

ゆめ
納得しているといった感じですか…?

 

自分で決めたことなので、概ね納得しています。

ただ、親は私が仕事を始めた事はもちろん嬉しいでしょうが、一流大学を出て何をしているんだという気持ちは隠しきれていません。

会話の中でふとした時にそういう辛い思いが出てくることがありますし、私自身も情けなくなる時があります。ただ、私自信は割り切ってしまった部分がありまして、以前の友達ともSNSなどを通じて交流も再開してきています。

親の理解は、今後の人生を通じて得ていくしかないかなと思っていますね。

 

ゆめ
今後の展望は?

 

いまの仕事は電話がない限り待機状態が続くので、かなりの時間が取れます。

なので、資格勉強でもしてもっと高いレベルで復活しようともしましたが、易きに流されて46歳になってしまいました。

現在はかつて習得した中国語スキルを活かして、翻訳事業などにチャレンジしています。事業はこれからといった感じですが、現時点でも比較的気楽に仕事ができており総体的にはいまの生活に満足です。

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